1. 幼少から小学校まで

わたしは福岡の田舎町で生まれ、育ちました。両親は長崎の出身ですが、近所には両親の兄弟等も住んでおり、親戚は多かったと思います。父親は建設の仕事をしていたので、職人さんがいつも出入りしている家でした。小学校では2年生からずっと1月期は学級委員をやらされていました。そんな事から5年生の時、児童会の書記に立候補させられ、見事(?)当選しました。調子にのり6年生の時は副会長(会長でないのがキモ)に立候補し、校庭で行われた全校朝礼で、2mくらいの巻物に公約を書き、読み上げました。楽勝と思われた選挙ですが、波乱が起きました。
選挙活動・・・・
選挙期間の昼休みは、2年生や3年生の教室へ名前を書いた襷をかけ、投票依頼を行います。その際小さきな漫画のキャラクター付きのメモ用紙に名前を書き配りました。そうするとそのメモ用紙欲しさに、下級生が多数集まりました。しばらしい活動です。
選挙違反・・・・
ところが、これが児童会で問題となりました。他の候補が訴えたのです。小学6年生で選挙違反の汚名を・・・。でも大丈夫でした、低学年生はそんな事はわかりません。多くの得票で見事に当選し、違反行為もそのうち忘れさられました。(何だか今の政権与党のようです)

その頃、近所に住む10歳年上の従兄は、国立の工業高等専門学校(高専)の電気科へ進学していました。その影響もあり小学生高学年では、「はんだごて」でラジオを作って、夜な夜な東京の深夜放送を聞いていました。ビートルズを知ったのもその頃でした。もちろん、この時の「選挙活動」「電気」「音楽」が、今の仕事や趣味へつながるとは思ってもいませんでした。

2. 中学~高校時代

地元の中学では、サッカー部へ入りましたが、そんなに一生懸命ではなかったと思います。
電気への興味はその頃、アマチュア無線へ移っていました。中学2年生の時、初の国家試験を熊本まで受けに行き、見事合格しました。(もちろん賄賂は使っていません) お年玉で無線機を買い、大人たちに交じり、いろんな人と交信をしたり、自作の電源をつくったり、地域クラブを作り活動をしました。イベントを開催しその様子を専門誌で取り上げてもらったりもしました。学校以外の活動としては、今振り返っても活発でした。ギターも少し弾いていました。吉田拓郎の「ともだち」を文化祭で弾き、みんなで歌った記憶があります。勉強の方は中の上くらいでした。地域的に鹿児島の進学校ラ・サールを狙う友人が多く、結構多く合格しました。今、医者になっている人が多くいます。

高校は地元の普通高校に入りました。スポーツクラブへは入らず、物理部で無線をやりました。文化祭などではギターや演劇部へ借りだされ、出演しました。

この頃、髪は肩まであり、よく女性に間違えられました。自由な校風でした。エレキギターのバンドも結成していました。福岡はバンドのメッカで、4人のバンド名はシーガルズ。ビートルズのコピーをやっていました。担当はジョージハリソン役のリードギターです。何度か自主ライブもやりましたが、余り上手くなく、自己満足のバンドでした。

3. 大学時代

高校の課外授業や塾にも行っていましたが、志望大学はことごとく落ちました。
何とか滑り込んだ工業系大学の電子工学科に入りました。地元ですが少し遠方だったので親の仕送りで初めての一人暮らしです。
友人も多数でき、お酒やディスコ(死語?)など充実(?)した学生生活でした。今の奥さんも大学時代に知り合いました。勉強はあまりしていませんでしたが、4年次は研究室に寝泊まりして機械の電子制御部分を担当し、回路設計とプリント基板のパターン設計をしました。パターンは中学時代からやっていたのでお手のものです。就職活動はあまり行っていませんでしたが、通信系の資格をもっていた関係で学校推薦で某国営放送局の面接を受けましたが落ちました。また研究室の担当教授から地元の大手半導体工場を紹介されましたが、面接後こちらから辞退しました。決められた事をきっちり行う事は性格的に長続きしないと思ったからです。今まさに九州は再度の半導体立地へ、時代が1回転した印象です。そんな折、他の教授がベンチャーを起業をしていた関係から興味がわき、その紹介でベンチャー就職(参画)する事にしました。