その斧、研いでいますか?——「木こりのジレンマ」から学ぶ、製造業DX成功の鍵

私たちの仕事や生活は、常に大小さまざまなジレンマと隣り合わせています。
「デジタル大辞泉」によれば、ジレンマとは「二つの相反する事柄の板挟みになること」。
思うように物事が進まず、いらいらするような、あの「もどかしい」感覚です。

有名な寓話に「木こりのジレンマ」があります。

ある日、旅人が森を歩いていると、一人の木こりが汗だくで木を切り倒そうと懸命に斧を振るっていました。しかし、なかなか作業は進みません。

その様子を見ていた旅人は、こう声をかけます。 「もしもし、少し手を休めてその斧を研いだ方が、もっと楽に、そして速く木を切れますよ」

すると木こりは、いらだった様子でこう言い返しました。 「見ての通り、木を切るのに忙しくて、斧を研いでいる暇なんてないんだ!」

この話は、日々の業務に追われるあまり、本質的な生産性向上策に目を向ける余裕を失ってしまう状況を的確に描き出しています。「頑張っているわりに成果が出ない」——この木こりの姿は、現代のビジネス、特に多くの中小製造業が抱える課題と深く重なります。

製造現場に潜む「木こりのジレンマ」

システム導入に関するご相談の場で、この寓話と同じような場面に何度も遭遇してきました。非効率な手作業、形骸化したプロセス。改善の必要性を感じつつも、お客様から返ってくるのは決まって「現状の業務で手一杯で、新しいことに取り組む時間も人もいない」という言葉です。

これは単なる優先順位の問題ではありません。木こりに「斧ではなく、最新のチェーンソーを使うべきだ」と力説しても、おそらく彼は首を縦に振らないでしょう。彼の中には長年培ってきた斧への愛着や、「自分のやり方」に対する自負があります。チェーンソーという未知の道具が、本当に自分の仕事を楽にしてくれるのか、その騒音や複雑さが新たな問題を引き起こさないか、といった疑念が先に立つのかもしれません。

ここには、「現状維持バイアス」と「コンフォートゾーン(快適な領域)からの変化への抵抗」という、人間が本能的に持つ心理的な壁が存在します。
製造業のお客様も木こりも、これまでの自分の頑張りや仕事のやり方を否定されること、そして長年の習慣を変えることに強い抵抗を感じるのは、ごく自然なことなのです。

「小さな成功体験」が変革の扉を開く

では、どうすればこのジレンマを乗り越えられるのでしょうか。 鍵となるのが、経済産業省がDXレポートで提唱する「協調領域」と「競争領域」という考え方です。

  • 協調領域: 勤怠管理、経費精算、Web会議など、他社と差別化を図る必要のない共通業務。
  • 競争領域: 自社の独自技術、ノウハウ、顧客との関係性など、企業の競争力の源泉となる中核業務。

DXレポート2では、まずこの「協調領域」で変革の成功体験を積むことの重要性が語られています。例えば、「これまでIT導入に全く興味がなかった社長が、Web会議の便利さに気づき、今では誰よりも活用している」という話は、その典型です。Web会議は汎用的なツールですが、実際に使ってみて初めて、その価値とインパクトを実感できます。

木こりの例で言えば、これは「最新のチェーンソーを買うべきだ」と説得するのではなく、「まずは一度、このチェーンソーを試してみませんか?」と評価の機会を提供することに他なりません。

実際にチェーンソーの圧倒的な効率性を体験した木こりは、あっという間にそれを使いこなし、生産性を劇的に向上させるでしょう。それだけでなく、「もっと軽い方がいい」「こんな刃はどうか」と、チェーンソー自体の改良アイデアまで出すようになるかもしれません。

道具から本質へ——自社の「競争領域」を見極める

この「協調領域」での小さな成功体験は、単なる業務効率化に留まらない、より大きな気づきをもたらします。

木こりは、チェーンソーを手にすることで、自分の本当の価値は「斧を振るう筋力」ではなく、「どの木が価値を持つのかを見極める知識」や「森全体の生態系を理解し、持続可能な伐採計画を立てる知恵」にあると気づくかもしれません。
道具はあくまで手段であり、競争力の源泉(競争領域)は別の場所にあったのです。

これは製造業のDXにおいても全く同じです。汎用的なツールやパッケージを導入し、「協調領域」での成功を体験することは、時に「自分たちの頑張りは、もしかしたら的外れだったのかもしれない」という厳しい現実を突きつけるかもしれません。しかし、その痛みを受け入れ、変化を乗り越えた先には、自社の本当の強み、すなわち「競争領域」がより鮮明に見えてくるはずです。

そしてDXの最終目的は、その「競争領域」をさらに磨き上げ、ITやデジタル技術を駆使して、これまで不可能だった新しい価値を顧客に提供していくことです。それは競争で優位な領域の強化かもしれませんし、逆に弱点だった領域を克服する挑戦かもしれません。

いま一度、自社に問いかけてみてください。 「木」や「森」の特性のように、貴社のものづくりにおける本当の競争領域はどこにあるのでしょうか? そして、その強みを活かした、新しい価値の提供はできていますか?

忙しさを理由に斧を研ぐことをやめてしまえば、いずれ木は一本も切れなくなります。今こそ、その手を少しだけ止め、自社の「斧」を見つめ直す時なのかもしれません。

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下田浩二